雑記帖 2006年3月

インタビュー

よく、聞かれます? どうしてシャンソンを? 唄を始めたんですか?そのきっかけは?
それにはやや 詰まってしまうのです。 ☆☆歌手に憧れたとか なんとかの啓示があったとか そういうエポックメーキングな事件は まったくありません。 何か答えなければいけないと思って、色々考えてみるのです。 思い当たる事といえば、まず、私は人の声に魅力を感じるたちであるという事。 それから、子供の頃から日本の和芸といわれるもの(落語、講談など)が好きだった。 朗読も好きだった。 それより何より唄が好きだった。 そんな事が 時とともに 集約されいつの間にか 出会った友人、出会った唄(ジュリエット・グレコ、アマリア・ロドリゲス、レオ・フェレ) などに触発され 今 こうして若林圭子の世界というものが できてきたのかしら と思うのです。 

私は、 あらかじめきっちりと ゴールのイメージがあり、そこに向かって歩いてはいないのです。 だいたいのイメージはあります、 例えば大人の唄、厚みも鋭さもある唄、なによりも自分らしい唄など。 そして唄っていて楽しい、やってみたいと思うものが あらたに見つかれば軌道修正をしていく。 そういうスタンスでやってきました。 これからどういう風に なっていくか自分でも 予測できませんし、 それがまた 日々生きていくという事かなぁ とも思っています。 

今、自分の言葉で唄うことは 当たり前と思っていますが、 当初は自分で詩を書くことなど考えませんでした。 既にある詩で、唄いだしてみると、こんな言葉を私は使わない、こうは思わない、変よね、これ? と疑問や府に落ちない事が多くなりました。 他人の詩を切り張りするのも 失礼な行為だから、自分で作ったほうが早いし、作詞料も払わずにすむ(笑)。 というわけで、自分で作るようになりました。 総てがこんな調子なんです。 

また、どういう思いを込めて?という質問にも いささか困るのです。
というのは、言葉にならないような思いを 私の声で 歌い方で表現できないものかしら?と思っているので、答えに詰まってしまいます。
恋がテーマの唄は 多いし、良く分ります、これほど誰もが経験する、理解できる人間の感情はないし、唄うというエモーショナルなものにはうってつけですから。

「私の思い」をなんとか言葉にしてみると、こんな事かしらと思います。
普通に暮らしている私たちが、これは理不尽じゃないかと思う、 オカシイぞ 何故だろう どうして と私たちの心にわきおこる感情がある。
もうここでどうにでもなれと 断ち切ってしまうのは簡単ですが、 それでもなんとかしようと生きていく。 生きていかなければと行動する。
そういう人間の尊さ、愛すべき愚かさ、可愛さ、勇気、無常観、あきらめ、怒り、望み など。 
大声でけして わめかない人間の思いなどを、込められるものなら、込めたいと思う。 それが出来たら良いなぁと思う。  

こうしてインタビューなどを受けると、 逆に自分に色んな問いかけをしますので、無意識にやっている行為を あらためて整理できるという点で、利点もあるのかなと思いました。 理屈はすきじゃないので、ついつい言葉で表現するのを避けようとする傾向が私にはあるようなんです。
あまり実のないお喋りは好きじゃないですが、 もう少し自己表現を 言葉でもできないといけないですね。 反省。

舞台写真(http://www.artool.com/matsumoto)

私のチラシやCDのカバーデザイン、写真を担当していただいている松本青樹(あおき)さんのホームページが出来ました。 だいぶ前なのですが、お知らせが遅れました。 私の舞台写真もさることながら、松本さんは、フラメンコ写真を20年以上撮影していますので、その舞台写真、また最近は花の写真など ホームページがギャラリーになっていますので、是非覗いてくださいね。 

歌手の写真というと 間接照明の美しいポートレートが多いのですが、松本さんの写真はそういった物とは少し赴きが違います。 私のとても好きな写真家です。 ただ、近年は私もだいぶ皺の数が増え(笑) アップではどこの老婆かと驚くような写真になってしまいました。
ですから、現実の顔を撮影しないで! とこれもあれもダメと ダメ押しをしまくり、 松本さんにはご迷惑をおかけしどうしです。 本来のセンスを生かせる状況ではない中、なんとか撮影していただいております。 これからは イラストにするか 夜目、遠目、傘のうち しか撮影禁止などと文句たらたらの私なのです。

どんな人でも 他人のポートレート写真を鑑賞するときは とても大らか、懐も広いのです。 私もその例外ではありません。 ところがひとたび自分の顔となると、こんな醜い表情なんて しているはずがない 写真家の腕が悪いんだと 撮影者のせいにしてしまいます。 でも、実際 それほど写真が実物と違わないと 私は理解しているつもりです。 なぜなら他人が 自分と同じ感想(こんなひどい写真〜なんて!)というセリフをもらすときに 私自身が内心「どこがそんなに酷いの? 実物とたいして変わらないのに」と思っているのですから。
自分の顔を眺めるのは 鏡に向かって 良い顔にしようと努力している時です。 また日常どんな表情をしているのか また光の具合でどう見えるのかなんて 知るよしもないのですから。 でもだから平気で堂々と人前に出ていられるのかも?しれませんね。 まさにうぬぼれ鏡です。 でも近頃 私は現実と折り合いをつけ やっとなんとか 皺だらけの写真を仕方ないと 受け入れられるようになりました。
公にばらまくチラシなどは また別の話ですが???

どこに美(大げさに言えばです)を感じるか、これは一言やそこらでは言えません。 人の数ほどあるわけです。
今日は 松本さんのホームページのお知らせですから、この問題は また次回。

2006年3月28日

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